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 潮音寺も荒廃し、人の心もすさみ、浄土宗信仰も薄れていたこの状況を打開すべく、潮音寺の中興上人として、1500年に迎えられた住職『曜譽酉冏』(ようよゆうげい)上人は、肥前国出身で、関東檀林の中心であった飯沼弘経寺(ぐきょうじ、茨城県水海道市)の第三世を務めた人でした。

  酉冏師の弟子で弘経寺第四世壱譽宗悦上人は、肥前国中野大蔵寺の住持であったことが分かっていますが、大蔵寺というのは潮音寺の末寺であった佐賀市兵庫町西中野の大蔵寺(現在は無住で寺格はない)のことと思われます。

 酉冏師の肥前国での布教活動は潮音寺のみならず、ほかにも開山、中興などがあり、関東檀林飯沼弘経寺の教線は肥前国にも及んでいたことがうかがえます。


 後、江戸時代の潮音寺の歴史については詳しいことは分かりませんが、現在も行われている五ヵ寺連合の輪番十夜の歴史300年にも及ぶと言われていますから、一応寺院としての活動はあったものと思われます。
 
 しかし明治の初期になると、またもや寺は荒れ果ててしまったといわれます。それを立て直したのが、第二十三世光譽豊也(こうよほうや)上人(副島豊也)です。

 豊也上人は潮音寺の歴史を後世に残すために、歴代上人の墓を建立したり、位牌を作ったり、過去帳を整理した後がうかがえます。現在の副島姓はここから始まるのですが、第二十四世身譽鼎也(しんよていや)上人(副島鼎也)、二十五世光譽圓珠(こうよえんじゅ)上人(副島圓珠)、そして現住職諦譽正幸(たいよしょうこう)上人(副島正幸、雅雪)に受け継がれています。

・・・続く

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